今日の空は蒼空

今の自分の心とゲイである葛藤と活動

『これが俺の生きてきた道』part6

本日は
『これが俺の生きてきた道』
part6を更新するにあたり

いつもに増して
かなりディープな表現があります。

 


それにより気分を害されることもあると思いますのでご注意下さい。

 

 

俺はJちゃんが話しかけてくれるのを
その当時で5年間もひたすら何もアピールしないで、ずっと待って居ましたが…


彼は新しい人員や
他の人に話しかけても
俺には一言も話しかけてくれませんでした。

 

 

わざとらしく集合時は近くに居たりなどしたのですが全く何も無いままで

 

彼は常に人に囲まれて
常に中心に居る存在でした。

 

勿論、そんな人材の彼は
ボランティアグループでも頭角を現してくるのは当たり前で

リーダーや部長など役職を次々と担って

太陽のようにピカピカに輝いていました。

 


一方、
愛犬の武蔵は、

我が家ですくすく成長して
俺は我が子が愛らしく武蔵が生きているから生きている状況がずっと続いていました。

 

 

ですがある日、
父が仕事から帰るや


『会社の人に顔色が悪いから病院に行け』

と言われたと…

 


その2日後、父は町医者に、
初診は

『心臓が少し悪いようだ、安静にしてれば大丈夫』との事でしたが


父の会社の上司が『それにしても顔色が悪すぎるから、ちゃんとした大きな病院に行け』と言われ


父は次の日、虎ノ門にある大きな病院にと

行きました。

 


父の病気は『血液系の癌』でした。

 


父の癌は白血病、リンパ腫とも違うらしく

何でも発症してすぐに末期と同じ速度の速さの悪性の血液の癌らしく


その当時、少し前にいかりや長介が血液の癌で他界したニュースがあり


それと似たものかと思っていたのですが

それとも違うらしく

今でも難しすぎて名前がわかりません。

 


社会と断絶していた俺は
父の入院を期に
男として一家の大黒柱の代わりとならなくてはいけなく

父の担当医との窓口の役目や

病院関係に役職や父の仕事場とのやりとりの対応等に四苦八苦しておりました。

 


高校中退から
社会から離れ20年近く

社会不適合者の俺が家庭と社会の窓口に

いきなり立つ事に…

 

 

しかも正直、我が家は貧乏で父にまともな治療を受けさせられなく自分自信が情けなさが何重苦にもなり襲ってきて俺の精神も更に不安定でした。

 


ある日、担当医からは
『病院は慈善事業じゃないから、払うもの払ってもらえないと次の治療も出来ない』と言われ30歳の俺は社会的地位の無い自分が情けなく恥じていました。

 


本当は俺が社会で働いて収入を持ってきて

生計をやらなくてはいけないのに……


こんな情けない自分を呪いました。

 

 

死にたい!!!

生きてるのが辛い!!

呼吸をしてることじたい恥ずかしく情けなく

 

かといってそれを打ち明け相談する

仲間も居なく

家では父がいないので男としての立場上

姉達を支えなくてはとの気持ちが自分を更に

追いやり


俺は自分を痛めつける事をやめられずに

居ました。

 


最初は自分に爪をたて次々とエスカレートし

 

そのうち自分を傷つける痛みに

この世に生きている生存価値を見出だしていました。

 


その当時、

性欲にまみれた一人の幼なじみとは

一年に数回、たまに会う程度

 

幼なじみが性欲を発散させたい時だけ

俺を呼び出し

 

ホテル代もけちり車椅子用の公衆トイレや

人の来る事の無い屋上や

 

時には父の働いていたビル管理の父の寝泊まりする宿直室に忍びこみ

声を出させない為に

タンスにあった父の下着を口に詰められ

手を拘束され前戯も無くいきなり荒々しく屈辱的な状態で性の捌け口となっていました。

 


でも、俺はその時だけ

 

『生きてる』

 

と実感を感じてました。

 


幼なじみは、こんな俺を必要としてる

こんな酷い事をするのは

俺を愛してるからだ、と思ってました…

 


それに、痛みや屈辱を感じることで

俺はこの世に生きてると思えたのです。

 


いや、今考えると思うようにしていたんです。

 


だって、その時、

幼なじみだけが俺を必要としていたと思っていたから……

 


ぼろ雑巾の様にぼろぼろにされました。

 


行為が終わった後は

一人とり残され独りぼっち…。

 


今日は顔に!

今日は飲め!
今日は俺の友達を連れて来た

 

時には携帯で誰かと喋りながらや

タバコを吸いながら俺に行為をしていたりなど


毎回会う度、そんな事ばかり

幼なじみとはいっても会ったら即行為

1時間もしないでサヨナラでした。

 


そこに愛なんて無かったんです。

 


そんなこんなで日々が過ぎました。

 


その当時、父の収入が無く
家は姉達が生計をたててくれてました。

 


姉達は母や父が借りた借金を返す為に

自分達も町金融から借り

正直其れだけで家は火の車でした。

 


しかも姉達は中学卒業後
夜間高校に通いながら働き

家にずっとお金を入れてくれてました。

 


一番上の姉は
子宮筋腫を高校生で発症


その当時はまだ将来がある、

子供を産むかも知れないから切らないでおこうとなりました。


姉の子宮筋腫は子宮内に出来るのではなく

子宮のヘリに出来るもので手術すると

子宮を全摘しなくてはいけないものでした。

 


姉は毎月生理が来る度
体の鉄分数値が下がり
重症鉄欠乏生貧血という病になり


体の血液が足りない状況で最悪な時は

交通事故で出血多量で無くなる人くらいの数値まで下がる事が度々で


その時は歩けなくなり車椅子で病院に鉄分の注射を受けに行くしかない状況のなか仕事をしながら家にお金を入れてくれてました。

 


正直、姉の病は今も変わらずあります。


毎月の月経が来ると女性用の生理用品では

生理の量は収まらなく

乳児のオムツを使わないと足りない状況です。

 


単に鉄分不足というわけでなく

鉄分が無いと重度の貧血がおこり

貧血が酷すぎると血液が再生されないため

 

心臓はからのポンプ状態で

それにより心肥大をおこすのです。

 

なので姉は人一倍体力もなく常に色は白をこし青白い色をしています。

 


姉はこんな状態なので仕事を転々として

働けないときは8年くらい療養をしてました。


もう一人の姉は同じく

夜間高校に通いながら働き続け
15歳から今までもずっと働き続けて

自分にお小遣いも無く全てを家に入れてくれています。

一番上の姉が病気がちな為。

弟が社会不適合者で引きこもりな為。

父が働けない今、

自分が働かないと誰が働くんだと自分を追いやり働き続けてくれています。


途中、良い縁談の話しもあったのですが

家族のためそれを断り今に至っています。

 

 

だから、最近

皆さんにお姉さんに優しいですねと言われますが


俺は一生姉達には頭が上がらないのです。


俺の人生をかけてでも

俺は姉達を守らないといけないのです。

 

話はそれてしまいました。

 

 

そんなこんなで俺は役立たず

生きる価値もなく


何のためにこの世に自分が居るのかも

分からないまま


生きている状況が長く続いていました。

 

 

そして俺が31の時
父がこの世から居なくなりました。


父は享年64歳でした。
母が他界した月と同じ4月


桜が満開の時
この世から旅立ちました。

 


母の時も桜が満開でした。


父は母が大好きでした。


叔父や叔母に
『妻を若くして亡くならせてしまって申し訳ない!』
『大好きな妻が残した子だから私が子供たちを精一杯育てる』と言って居たそうです。

 

とうとう我が家の男は俺一人になりました。

 

そして

こんな俺でもとりあえず

愛してくれている人を又1人

俺は

この世から失いました…。

 

 

俺の状況は何も変わっていなく

分からないまま
父の葬儀の喪主を務め父を送り出しました。

 

いま考えると
不適合者の俺が喪主なんぞ良くやり遂げられたなと思います。

 

 

そして、
父が旅立ち我が家は3人と一匹になりました。

 

 

俺はボランティアの青年団
休みがちになり
又、引きこもりに戻りました。

 

 

この頃はもう俺には
愛犬の武蔵しか残っていませんでした。

 


愛犬の武蔵だけが

俺の全てで生きる糧となっていました。

 

 

父が亡くなり、6年の月日が流れ、

 

俺の社会との断絶は更に深まり

どんどん社会に戻れなくなり不適合者として

生きていると

 

今までボランティアの青年団の団長としていたOさんという人が青年団を卒業し

壮年団になる事が決まり

青年団の人事もかなり激変したある日

 


俺に一筋の光が射したのです。

 

 

長い文書を読んで頂きありがとうございます。

 

 

途中下劣な表現などあったことお詫びします。

 

 

もし良ければ次回の
part7も読んで頂ければと思います。

 


もしかしたら次回のpart7で
20日の大事な日の話が出るかもと思います。

 

 

そしてこの
『これが俺の生きてきた道』も佳境に入ってまいりました。

 

引き続き

読んで頂ければ

ありがたいと思っております。