今日の空は蒼空

今の自分の心とゲイである葛藤と活動

これが俺の生きてきた道 part3

つたなき俺の人生の続きですが、
よかったら読んで下さい(>_<)

 

ということで、俺は全てが嫌というより、

全てが怖くて社会から高校2年の夏に逃げました。

 

人との交流を遮断した俺でしたが、

引きこもるにも金が必要なわけで、

極貧な家庭のうちは引きこもる部屋もなくて、

 

ある日、会ったこともない親戚が遊びに来る事になりました。

 

そして、
初対面で親戚から言われた

 

一言が

 

『うわっ!!バケモノ!!』

 

そうですよね。
身長167㎝の
体重135㎏以上ある奴見たら

 

でも、ショックでした
血縁者から『バケモノ』って…


人生の中でバケモノって言われる人ってどんくらい居るのかな…


そしてそんなこんなでストレスから過食は進み

食べることだけが自分を満たしていました。

 

18歳の春、

突如、夜中に寝ていると父にたたき起こされ
母親が体調悪く救急車で運ばれたと

 

その時の母親の診断は

更年期から自律神経失調症でしたが、
その後も母の体調が芳しくなく
ある日、母に付き添いを頼まれ一緒に病院に行きました。

 

そして待合室で待っていると
母が何気に18歳の俺にこう話して来ました。

 

『お母さんね、この前会社の人と遅くまで飲んだ帰りに、酔っぱらっていたから知らない人と公園でSEXしたからAIDSかも知れない』

 

…………!

 

最低な母親です。

 

母親の酒癖は変わらない一方

さらに不埒さが母に加えられ

 

18歳とはいえ、まだ年頃の息子を前に自ら

『淫らな性』の話をオブラートにも包まず話して来るなんて……

 

正直ショックでした。

 

どこかで、
母親たるものっていう
母親像があったからかも知れないですが…

 

父の以外の人と、しかも野外のゴムも着けず、しかも中出しって事ですよね……

 

その時、社会も人も信じれないでいた

僕の唯一の拠り所だった母親にまで裏切られた気持ちで、俺の居場所はまた一つ消えました。

 

そして
母親の病はどこにいっても更年期から来るで

片付けられ一年が経ちました。

 

ですが、
母の下っ腹が妊婦のようにどんどん大きくなり、その腹は異常だから病院に見せにいけと会社の人に言われ見せに行ったところ

母は、

 

『卵巣癌のステージ4』

 

余命2週間との診断が下されました。

 

僕は奈落の底に叩き落とされました。
とてもとても深い闇に一人落ちていきました。

 

母は、癌に負けないと今まで見せたこと無い

人間に変貌をとげ必死に癌と戦いました。

 

家族も勿論、全力で応援しました。

 

そんななか、

ある青年ボランティアの方々が僕に逢いに来てくれました。

 

そのボランティアの中の
リーダーのSさんは俺の2つ上の方でした。

 

最初は人を怖がり人を信用出来ない俺は勿論

Sさんに対してもバリアを張りました。

 

ですが、母が癌と戦う姿をみて

僕も何かしら頑張らねばと思い

社会復帰に向けそのボランティアに入り行動しましたが、

やはり人の輪に馴染めなかった………


そんな俺をSさんは必死で応援してくれました。

 

Sさんは大学生で当時ファストフードのバイトをシフトで入っているのにシフトの時間が過ぎているにもかかわらず俺と居てくれたり、
大学の教授からPHSに連絡が入り何度も何度も鳴り続けているのに
その電話に出る事なく最後まで俺の話を聞き続けてくれました。


俺は何故か話している最中に

『あっ!ゴメン○○から電話だ』って話を止めて出られる人が苦手でして……

苦手というか今、俺と話してるんだよね?
何か俺は二の次?って気がしてしまって💧


勿論そんな事を思っている事は

誰にも言ったこと無いです。

だからほとんどの人は電話に出ます。

話を戻しますね(^_^;)

 

Sさんは電話を気にする素振りもなく俺の話を真剣に聞いてくれました。
逆に僕がSさんの電話を気にするくらいかかって来ているのに、
たまらず『電話出て良いですよ』といったら

笑顔で『大丈夫、大丈夫』って
Sさんとの話が終わって、
別れてからそっとSさんの後ろ姿を団地の上から見送ったら
Sさん信じられないくらいの

猛ダッシュで帰って行きました。


きっと大切電話だったんだと思います。


こんな親戚にまでバケモノと言われた俺なのにSさんは二の次にしないで一番にしてくれた。

 

俺は初めて信じれる人が出来ました。

 

Sさんなら信頼できる!と

 

がむしゃらに社会復帰に向け頑張りました。
ですが、母の容態は悪くなる一方で僕の心も空回りの連続でした。

 

それにわをかけ、
ボランティアの配置変えで
リーダーがSさんじゃ無くなりました。

 

俺は進む場所が見えなくなりなりました。

もう直属のリーダーじゃ無いSさんに迷惑をかけてはいけないと思い、

ボランティアの中でもそっとフェイドアウトして行きました。

 

ある日、母の担当医から呼び出しがあり言われました

 

『もう効く薬がありません、後は最後を待つだけです』と

 

その言われた後に俺はボランティア集いがあり、参加しました。

各グループに別れた時、

遠くにSさんが見えました。

俺は、もうSさんに頼っては行けない……

Sさんはもう俺のリーダーじゃ無いんだから

Sさんには新たな部員さんがいるんだと思い、
その集いから誰にもわからないように抜け

家路に帰る途中
肩を叩かれ振り向いたら
息を荒くしたSさんでした。

 

Sさんは集いの中、俺を見つけ走って追って来てくれたのです。

 

僕は母の状況を話しました。
そしたらSさんがいつもは俺を名字に君をつけて呼ぶのに
その時は呼び捨てで!
『○○が今しっかりしなきゃいけない時だろ!俺もこれからも応援してるから!』って

 

俺はその時、
何かが弾けました!!

この人は

社交辞令とかじゃなく
本当に俺を一人の人間として扱ってくれている
一対一で向き合ってくれているんだと


俺は新たに奮起して、

がむしゃらに頑張りました。

 

ですが、
Sさんに会ったのは、

その日が最後でした。

 

そしてそれから3ヶ月後
俺が成人式を迎えた年、母は49歳という若さで他界しました。

 

これで一度に俺の周りから2人も居なくなりました。

 

俺はまた、引きこもりました。

過食も進むばかり。

 

俺は進む場所が解らなくなりました。

 

Sさんの事をあらゆる手をつかい探しましたが何処にもSさんの居場所はわからず

Sさんと一番、親しい人や
Sさんのボランティアの直属の上の人に聞いても行方はつかめなかったのですが、
探している間に急に消えた謎は解りました。

 

Sさんは実家暮らしで実家は自営業を営んでおり昔は相当繁盛していたようでしたが、

2年前くらいから不渡りを何度か出したらしく、Sさんの家計は火の車だった様子で
最後は近親者の誰にも告げず一家で夜逃げしたらしいとの事でした。

 

俺は……
あの時、一番辛いのは俺だと思っていました。
でも、違った……

Sさんも家があんな大変な中、

自分の家の大変さも微塵も感じさせず
俺の為にあそこまでやってくれた事に、

申し訳なく涙が止まりませんでした。

 

Sさんに会って謝りたい!!

 

俺はSさんを探しました。

 

ですが、
Sさんの消息はそれ以降もつかめませんでした……

 

俺は始めて分かりました。

俺はSさんを最初ゲイとして好きだったと思っていましたが

 

違いました。

幼少期からのトラウマの俺を始めて一人の人間として向き合ってくれたSさんに

 

俺は

 

『依存』

 

していたんだと。

 

それから俺は生きる糧がなくなってしまい。
20歳からまた引きこもりました。

 

ですが、母が亡くなってから7ヶ月後

ある日、

 

俺は奇跡の出逢いがあったのです!!!

(*゜Q゜*)

 

part4へ続く

 

とりあえず今回はここまで

 

あっ~本当に昔の俺を思い起こし書いて見るとイライラします!!

この文を読んでくれた人も多分同じように、

なんかコイツ腹立つ~と思われた人も多いんじゃないかな(^_^;)

スミマセン。
でも、前半の俺を知ってくれないと

後半の俺が理解しがたいと思うので💧

暫しお付き合い宜しくお願いしますm(_ _)m