これが俺の生きてきた道 part1
長くなるなるけど
僕の事を話そうかな……
決して不幸自慢では無いです。
つまらなかったらご免なさい。
前にも書いた通り
俺は…僕?
もう、
りっぱな『おっさん!』です。
幼少期は、やはりゲイの兆しがあったのか、戦隊モノはピンクが好きだったり、
ピンクレディ、松田聖子、花の80年代組などハマり、踊ってたな(^o^;)
それと微かに記憶にあるのが、アニメ『ヤッターマン』の変身シーンで男の子の方の服が脱げるシーンにドキドキしたのを微かに覚えてる。
でも、初恋は幼稚園の時
相手は女の子の、ともえちゃんでした。
親友のこうじ君も、ともえちゃんの事が好きな感じで親友との三角関係って感じだったような……。
幼稚園の時は駆けっこも、一番、運動神経抜群!
リーダー的存在で皆を引っ張っていた存在でした。
ですが、
家に帰ると、
母はお酒をあびるほど飲む、アル中というよりお酒にだらしない人で、虐待もかなりされました。
線香の火種を押しあてられたり、割れた竹のものさしで叩かれたり、(これが冬は悴んだ肌に痛いのなんのって、竹は縦に割れるからみみず腫がハンパ無くて(T-T))
まっ裸で冬空の外に放置されたり、5時間もの間、私語厳禁で正座をさせられ母のお酒の席の愚痴を聞かされてたり……
でもね、
昔はそれが母の愛情なのだと思っていました。
どこの家も皆、その様にされているんだと思ってました。
父は母が大好きな人でした。
子供より母優先の人、母が楽しくお酒を飲むのが好きでどんどん飲ませて、そのあげく虐待、でも知らん顔でした。
それならまだしも、父はギャンブル依存、
しまいには母にもギャンブル依存がうつり、
朝の開店から閉店までパチンコ三昧、
高校卒業をした姉たちには街金融で借金を
各自300~500万近くさせてまで、ギャンブルの軍資金にあてていたから
勿論わが家は極貧生活でした。
ガス、電気、水道、電話のライフラインが全て止まるのは
よくあることでしまいには家賃滞納で裁判、明日にも夜逃げか!なんて事も、何度もありました。(-_-;)
取り立ての金融会社は朝8時くらいから夕方5時までドアをknock、knock、(今でもドアknockの音が少しトラウマです💧)
食べ物はパチンコで勝ったときは華やかでしたが、 負ける方が多く、ご飯を炊いて、それをケーキのように6等分にカットし、6分1を沢山の水でお粥にしそれを6回に分け、1週間を過ごす生活、おかずは有れば納豆と豆腐と卵を混ぜた物、(贅沢品です)お米が買えない時は、
覚えている中で、所持金家族合わせて100円しかなくて
スーパー見に行ったら、なんと鶏ガラが100円、これをあげたら唐揚げになるかもと姉弟で考えてやってみたら、
所詮、鶏ガラでした……
食べるとこ無し、鳥をさばく人ってあんな綺麗に肉を削げるんだなって関心しました。
でもね。
本当に貧乏自慢とか、なんでもないことだけは解って欲しいのだけど、
貧乏でも楽しかったんだ。
暗くテレビもつかない、真っ暗な部屋、
となりは夜間高校があったからグランドの
ライトが21時までついてたから、
その灯りが射し込んで少しだけ目がなれたら動ける状況、
グランドの灯りが消えたら仏壇があるから
蝋燭はあったので、その光もあったし、
姉達と喋りながら寝たから、毎日がキャンプみたいだった。
うちの姉達は不思議な人で寝ながらどんな話をしてたかというと
姉『ねぇ、ねぇ、ユーミンのこの歌の歌詞を想像して、どんなシュチェーションだと思う?』なんて言ってきたり
姉『今からテレパシー感じて!ケーキの種類を念じるから当てて』とか
姉『オフコースの歌を皆で歌おう』など、
そんな事ばかり、
でもそれがあったからこそビンボーでも
楽しく過ごせたのかなと思う。
母はアル中に虐待、
父はギャンブラー、
家は極貧、
それだけならまだ僕の幼少期は幸せだったかも知れません。
この後も続くけど、
長すぎるので、
次回に。
だらだらと僕のつまらない人生を書いて
スミマセン(>_<)
読んでくれるてる人に最大の感謝です。